英紙 The Independent は、日本列島を取り巻く「環太平洋火山帯(Ring of Fire)」の最深部=ハダル帯(6,000〜1万1,000m)を有人潜水艇で調査し、約3万体の生物(11分類群・70の形態群)を記録した研究を紹介しました。
References:The Independent
深さ・餌の供給・地震活動・海底地形の違いが、生態系を劇的に“作り分ける”——そんな最前線の知見です。
この記事では報道の要点を整理し、「なぜ海溝ごとに“別の海”になるのか」を深掘りして解説します。
報道の要点:日本・琉球・伊豆小笠原の3海溝を同条件で見比べた
- どこを調べたか:
日本海溝/琉球海溝/伊豆小笠原海溝。
2022年8〜9月に6回の有人潜航で、7,000〜1万m級の水深帯を縦断観察。
ハダル帯の生物を動画で連続的に記録しました。
- 何が分かったか:
深さ・表層からの有機物の落下量(餌)・地震履歴・海底の安定性によって、同じ“深さ”でも群集構成が別物になること。
日本海溝7.5kmではナマコ類や堆積物食者(ヨコエビ、チューブイソギンチャク等)が豊富。
一方、餌が乏しい琉球海溝では同深度でも様相が一変。
伊豆小笠原海溝の約9kmではウミユリの大草原のような景観が確認されました。 - スケール感:
約3万体・11分類群・70形態群・8種の生息ハビタットを同一キャンペーンで系統的に記録したことは、ハダル帯研究で前例の少ない密度。
査読論文はJournal of Biogeographyに掲載。 - 関連トピック:
同ミッション系列からは“世界最深の魚”(スネイルフィッシュ属、8,300m超)の記録も2023年に報告済み。
ハダル帯の適応限界を塗り替えました。
「ハダル帯」は狭いのに世界の深さの4割を抱える
ハダル帯は海溝だけに点在する極限生態系。
面積は海底全体の0.25%未満ですが、海洋の“深さ”の4割超を占める“深度の王国”です。
水圧は1,000気圧級、太陽光はゼロ。
主要なエネルギーは表層から降る“マリンスノー”や地滑り・陸源物質、化学合成細菌などに依存します。
だからこそ、表層生産や沿岸からの流入量の差が、深海底の餌事情を左右し、群集の顔つきを替えてしまうのです。
「同じ深さなのに違う海」——鍵は揺れと安定
研究チームは、同じ深度帯でも地震履歴や海底の安定性が異なる区画で、多様性・優占種・体サイズがはっきり分かれることを示しました。
- 地震が多く地形が不安定な斜面では、低多様性だが“しぶとい”適応型が優勢。
- 比較的安定した斜面では、多様なグループが共存しやすい。
この「揺れの記憶」が、数千年スケールで群集を“選別”してきた可能性が高いという含意です。
ハダル帯を“地震の履歴書を読む顕微鏡”として使える点は、地球科学の視点からも見逃せません。
なぜ急速に適応できるのか——形と暮らしの微差の積み重ね
報道がいう“rapidly adapting(急速な適応)”は、形態・摂食様式・移動戦略などの組み合わせ最適化が海溝ごとの環境差に素早く噛み合っている、という観察を指します。
例えば、堆積物を漉し取る堆食者が餌豊富な海溝で優勢になる一方、捕食・死骸食中心の群集が飢え気味の海溝を占める。
“どのハビタットで、何をどう食べるか”という行動学的・機能形態学的な適応が、数10〜数100mの深度差や地形の起伏に沿ってモザイク状に配置されます。
これは論文が強調する「深さ×生産性×撹乱史」の三変数で群集が規定されるという枠組みに合致します。
研究法の新しさ:観察の連続性と比較のデザイン
ハダル帯研究は、これまで餌トラップや着底カメラなど点の観測が主流でした。
今回は有人潜航で“連続動画”を取得し、ハビタット(8タイプ)を跨いで網羅的に比較。
- 連続観察=稀少な生態行動やパッチ構造の見落としを減らす
- 同一キャンペーン内の比較=海溝間の“差の原因”を同条件で切り分け
この設計が、「海溝ごとに生態系が作り分けられる」という結論の信頼性を押し上げています。
世界最深の魚から見える、適応限界の上書き
同一系列の遠征から、8,300m超に棲むスネイルフィッシュ(Pseudoliparis属)の映像記録が報告されました。
細胞膜の脂肪酸組成やタンパク質保護の浸透圧調整物質など、超高圧に耐える分子適応は知られてきましたが、実在深度の更新はそれらの適応が“生態系として成立する”ことの証左です。
「生き物の限界」は思ったより可塑的——これもハダル帯が教える重要な示唆です。
私たちへの示唆:海底資源・防災・気候の見えない接続
- 資源開発の基礎資料:
海溝はレアメタル堆積やメタンハイドレート等の議論と切り離せません。
「どのハビタットを壊すと、どの機能が失われるか」を知るうえで、今回の生態地図は重要な土台になります。 - 地震・津波のリスク読解:
“揺れの履歴”が群集構造に刻まれるなら、生物群集を補助指標に海底地形の安定度を読む発想も育ちます。 - 気候変動との接点:
表層生産の変動はマリンスノーの量と質を通じてハダル群集に波及し得ます。
“最深部の反応”は、地球全体の炭素循環を見る新たな窓になるかもしれません。
(これらは研究の直接結論ではなく、今回の機序説明からの実務的含意です。)
まとめ:深さが生態系を作り、揺れが顔を変える
- 日本周辺の3海溝で、約3万体・11分類群・70形態群・8ハビタットが系統的に観察された。
- 深度・栄養供給・地震履歴・海底安定性という4因子が、海溝ごとに異なる群集を形づくる。
- 連続動画×海溝間比較という方法論の刷新が、“別々の海”の存在を鮮明にした。
- 最深魚の更新を含め、適応限界の見直しが進む。
ハダル帯は、面積こそ小さいが、地球の「深さ」と「時間」を圧縮して見せるショーケースです。
見えない最深部をていねいに読むことが、資源・防災・気候の賢い意思決定につながるはず。
今回の成果は、その“地図の白地”をまた一つ埋めたと言えます。



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