米オレゴン州ポートランドで2025年10月12日(日)夜、恒例の「全裸自転車ライド(World Naked Bike Ride)」の“緊急版”が実施され、参加者たちが連邦軍の投入に抗議して市内を走行した。
References:AP News
雨が降る気温12℃前後の冷え込むなか、参加者は“完全に裸”からコスチュームや最小限の装いまで思い思いの姿で走り、「喜びは抗議のかたち(Joy is a form of protest)」と掲げた。
ルートは米移民・関税執行局(ICE)施設前に及び、当局は歩道からの抗議を指示。
このライドは、トランプ政権が進める州兵派遣(連邦化)に対する緊急の意思表示として組織されたものだ。
何が起きたのか:雨の夜に“裸で走る”――APが伝えた現場のディテール
APの現地レポートによれば、参加者は「ポートランドらしい抗議のやり方(quintessentially Portland)」と語り、雨天と冷気にもひるまず走行。
「街に軍隊を入れたくない」という声が繰り返し上がった。
主催側はSNSで「身に着ける量はあなたの選択」と述べ、互いの尊重と連帯を強調。
冷雨のため例年より“完全な全裸”は少なめだったが、ヘルメットのみで走る人も見られたという。
背景①:なぜ“全裸で”自転車なのか――W.N.B.R.の理念とポートランドの位置づけ
「全裸自転車ライド」は世界各地で行われる衣服自由の自転車デモで、化石燃料依存や自動車中心社会への異議申し立て、サイクリストの安全、ボディポジティビティ(身体受容)を訴えてきた。
ポートランドは2004年から毎夏開催し、近年は世界最大級規模(1万人規模の年も)として知られる。コロナ禍や体制変更で揺れた時期を経て、街の文化的アイコンとして復権している。
その「夏の祭典」をあえて10月に前倒ししてまで行われたのが今回の“緊急版”。
メッセージは気候や都市交通だけでなく、政治権力による軍事的介入へのノーへと広がった。
裸身=無防備さを晒すことで、国家権力の威圧と対照的な「市民の脆さ」と「ユーモア」を可視化する――それがこの街の“抗議の美学”である。
背景②:法の視点――オレゴンでは「象徴的な裸」が表現の自由として保護され得る
ポートランドの公的空間での「裸の抗議」は、法的にも一定の根拠を持つ。
オレゴンでは、公共の裸が“象徴的表現”である場合、表現の自由として保護され得るとの司法判断が積み上がってきた。
とりわけ〈City of Portland v. Gatewood(1985)〉は、文脈次第で公的裸身を違法とみなさない判断枠組みを示した事例としてしばしば引用される。
※ただしわいせつ・挑発目的等は別、という線引きも同時に存在する。
このため「裸=即違法」ではないのがポートランドの特徴で、過去にもTSA検査への抗議で全裸になった市民の無罪が報じられるなど、抗議の表現としての裸が社会的にも制度的にも“認知”されてきた。
背景③:なぜ“いま”連邦軍投入に抗うのか――ポートランド情勢の現在地
10月上旬、連邦政府が州兵をポートランドに投入する動きを見せ、10月4〜5日付の連邦地裁命令が一時差し止め。
その後、9日(現地)ごろまでに控訴審が一部判断を変更したが、直ちに市内投入が可能になるわけではないという流動局面だ。
「軍隊の国内投入」は合衆国で極めてセンシティブな統治問題で、地方自治体や州政府、司法がせめぎ合う。市民側の抗議は、こうした法廷闘争の只中にある政治的圧力でもある。
視覚の政治学――“裸の群衆”が発する三つのメッセージ
脆弱さの可視化
衣服を脱ぐことは、「市民の無防備さ」を露呈する行為である。装甲車や防備した治安部隊と“裸の身体”の対比は、権力と市民の非対称を直観に訴える。
雨に濡れた肌、震え、笑い――それ自体が“テキスト”になる。
喜び=抗議の再定義
主催者が掲げた「Joy is a form of protest」は、怒号や衝突の物語に偏りがちな政治報道への対抗線である。
音楽、仮装、ユーモアを媒介に「共にいること」の力を示す。
“消耗しない抗議”のモデルとして拡散しやすい。
都市のブランドと公共空間の再編
観光局サイトが歴史を解説し、“世界最大級の裸ライド都市”を自称するまでに至ったのは、単なる奇祭ではなく、公共空間の使い方・交通の在り方を街ぐるみで再考してきた証左だ。
コース秘匿と大規模な交通影響、地域経済への波及を抱えながらも、「走る権利」と「暮らす権利」の調停を更新してきた。
論点:多様性・安全・持続可能性
多様性の課題
過去には「誰のための解放か」をめぐり、参加者の人種やジェンダー多様性についての批判もあった。
運動が包摂的であるための設計――安全な更衣、被写体の同意、ハラスメント対策――は不可欠だ。
安全運営
雨天・夜間・低温のリスク管理、隊列・誘導・救護、当局との合意形成は、都市の受容性を測る指標でもある。
ICE前での“歩道抗議”指示は、表現の自由と公共の安全の折り合いを象徴する。
メッセージの複線化
本来の脱炭素・自転車安全の訴えに、軍事的介入への反対が重なることで、運動は単線的なイシューから“都市の統治”全体へと広がる。
これは支持の裾野を拡げうる一方、争点の希薄化というリスクもはらむ。
ポートランドの学び
抗議はフォーマットで語る
怒りだけでなく喜び・ユーモア・身体を使ったフォーマットは、動員と共感を生む。
視覚的に強い“裸の群衆”は、ニュースサイクルに刺さる。
法と街の文化の相互作用
裸の象徴性を認める法環境が、抗議のレパートリーを豊かにした。
制度が文化を支え、文化が制度を試す循環がある。
ローカルが国家政治に接続する瞬間
州兵派遣の是非という統治課題に、市民の非暴力の可視性が重なった。
法廷と路上の二面戦が同時に進む。
これから:10月中旬の“天秤”はどちらに傾く?
控訴審の判断次第で、連邦化・投入の可否が揺れる日々は続く見通しだ。
仮に投入のハードルが下がれば、抗議はより大規模・持続的になる可能性がある。
逆に司法判断が投入に明確な歯止めをかければ、街の表現空間をめぐる議論は交通・環境・観光へと再び主軸を戻すだろう。
どちらに転んでも、この街は「裸で走る」という手段で、公共空間のあり方を問い続けるはずだ。
まとめ
裸で走ることは無防備さの宣言であり、都市の自由のテストでもある。
ポートランドの“緊急版ライド”は、軍事的圧力への抵抗を、喜びと連帯の実践として描き直した。
今回の出来事は、環境・交通・身体・統治という一見ばらばらなテーマを、一つの走行する身体の群れに束ねて見せた。
笑いながら抗う――それは、民主社会が持ちうる最もポートランド的で、同時に普遍的な政治のかたちなのかもしれない。



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