1970年代、ダグラス・ホフスタッターは磁場中の結晶格子で電子が取り得るエネルギーを計算し、蝶の羽のようなフラクタル図形(のちにホフスタッターの蝶)を描き出した。
以後、その背後にある方程式が無限に穴の開いた集合(カントール集合)を生むことを厳密に示せるかが大問題となり、数学者マーク・カックは「証明できたらマティーニ10杯」と懸賞を掲げた。
WIRED(Quanta)による最新の記事は、この難題が数論の視点でついに体系化され、量子のフラクタルに数理的説明が与えられた経緯を物語として描く。
References:WIRED
何が10マティーニだったのか
問題は、量子力学の中核であるシュレーディンガー方程式の特定の場合(Harper/Almost-Mathieu 型)で、磁束を表すパラメータαが無理数のとき、許されるエネルギーの集合がカントール集合になるかどうか、という主張だった。
1981年にカックとバリー・サイモンが提唱し、カックが“10マティーニ”の懸賞を口にしたことで俗称が広まった。
先行の決着:2005→2009年の「証明」
2005年、アルトゥール・アヴィラとスヴェトラーナ・ジトミルスカヤがAlmost-Mathieu 作用素のスペクトルが、すべての無理数αと任意の結合定数(0でない)でカントール集合になることを示し、2009年に Annals of Mathematics に掲載された。
これがいわゆる「10マティーニ問題の解決」である。
もっとも、この証明は複数の技法を継ぎ合わせた性格が強く、さらにより現実的なモデル(格子の乱れや磁場の揺らぎ)に拡張すると壊れてしまう点が不満として残った。
「美しいが汎用性に欠ける」——当事者もそう振り返っている。
実験は蝶を捕まえた
理論が「理想化」に見えた時代を一変させたのが実験だ。
2013年、グラフェンのモアレ超格子でホフスタッターの蝶に対応するフラクタルなエネルギー構造が観測され、トポロジカル量子数(ホール効果の位相不変量)との関係も確認された。
量子のフラクタルは机上の空論ではないことが明確になった。
そして2025年:数論が全体像を与える
今回WIRED(Quanta)が伝えた新機軸は、アヴィラが提唱してきた“グローバル理論”を双対方程式側まで拡張解釈し、一つの枠組みで多様な設定の“10マティーニ型”命題を一括で証明できるようにした点だ。
中心メンバーはルンルイ・グー(葛凌芮)、ジトミルスカヤ、ユー(游景恭)、チョウ(周淇)ら。
個別パッチの「継ぎはぎ」を脱し、数論的構造(連分数や算術的性質)と量子スペクトルの階層性を滑らかに接続した。
彼らはこの方法で、Almost-Mathieu 型に限らない関連モデルにも射程を広げた。
とりわけ「ドライ・10マティーニ問題」——開き得るスペクトルギャップがすべて開いているかという強化版——について、非臨界領域(|λ|≠1)での完全解決が相次いで報告され、分野の古典的予想(ギャップ標識定理)との整合が明瞭になってきた。
ここまでの物語を整理する
- ホフスタッター(1970s):
数値計算から蝶のフラクタルを描く。直感はカントール集合。 - カック&サイモン(1981):
問題を定式化し、「10マティーニ」の懸賞話に。 - アヴィラ&ジトミルスカヤ(2005/2009):
Almost-Mathieu での主張を完全証明。 - 実験(2013):
グラフェン系で蝶の観測、トポロジーと接続。 - 2023–2024:
ドライ版を非臨界で解決(グー/ユー/チョウ)。 - 2025(今回):
アヴィラのグローバル理論を双対側まで拡張→単一の証明スキームで広範囲をカバー。
量子×数論×トポロジー:なぜ重要か
Almost-Mathieu 作用素のスペクトルは、磁束(α)に応じて無数の許容帯と禁止帯(ギャップ)が現れ、その全体像は自己相似を示す。
ギャップには位相不変量(チャーン数)が割り当てられ、量子ホール効果にも直結する。
今回の“数論化”は、この階層構造が「どの分数近似で、どの桁で、どれくらい開くか」といった算術的精度に支配されることを、一般論として語れるようにした点に本質がある。
フラクタル=美しい絵から、予言可能な構造へ。
よくわかるミニ用語
- カントール集合:
線分の「真ん中の1/3を無限回」消し続けて残る、点の塵のような集合。
エネルギー準位が「無限に穴だらけ」であることの比喩。 - Almost-Mathieu 作用素:
一次元の準周期的ポテンシャルをもつ離散シュレーディンガー作用素。
ホフスタッターの蝶と等価なスペクトル問題を与える。 - ドライ・10マティーニ問題:
開くべきギャップがすべて開いている(“乾いている”)かを問う強化版。
非臨界で近年解決が公表。
今後の焦点
- 臨界点(|λ|=1)や、より複雑な格子・ノイズ環境への完全一般化。
- 実験系への橋渡し:
モアレ超格子や冷原子格子で、数論的ラベル(ギャップの“番地”)が観測量としてどう現れるか。 - 計算手法:
グローバル理論の実装により、スペクトル計算の高速化や逆問題(パラメータ推定)への応用。
まとめ
“10マティーニ”は、量子のフラクタルが単なる奇景ではなく、数論・トポロジー・解析が交差する普遍構造だと示した。
2009年の決着で理想化モデルは解け、2013年の実験で実在性が確かめられ、2025年の枠組み拡張で一般性が見えてきた。
量子物理のディテールは分母の桁のような算術に左右される——この驚くべき対応関係は、物理に効く数学がどこまで届くかの地平を、もう一段押し広げたと言える。



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